利尻島【Photoでみる観光スポット(北海道遺産認定 泉の袋澗)】

来島者のほとんどが、登山やトレッキングなどのアクティビティや、オタトマリ沼や姫沼などの景勝巡り、そして“利尻島のうに”を目的に来島される。そんな中であるが、実は利尻島は歴史深い島である事をご存じだっただろうか?

そもそも“袋澗(ふくろま)”という言葉も、利尻島以外で耳にする機会は多いとは思えないが、この袋澗は北海道遺産に認定されている大切なモノなのである。
歴史に興味のない方は説明が長くなってしまい恐縮なのだが、利尻島の名前が日本史上に現れるのは、1644年の江戸時代、松前藩が幕府へ提出した「蝦夷地図」に現れる。明治に入り「蝦夷」が改名され、「北海道」となり、当時は米作が不可能だった為に水産物が主な商場(あきないば)での主力品となっていたようだ。時代が流れるにしたがって、船舶技術の向上や交易システムなども構築されていき、利尻島で水揚げされたニシンが大量に北前船で交易されるようになると「ヒトは北へ、モノは南へ」といった動きがみられ、利尻島はいっきに興隆していくのである。

別名「春告魚(はるつげうお)」と呼ばれるニシン漁のため、ヤン衆と呼ばれる当時の出稼ぎ労働者が島を訪れるようになる。漁期は3月~4月で、その時期はまだ波が高く漁をするのがが困難であった。その為に水揚げをしやすくし、鮮度を保つために、ニシンを一時プールする役割を果たす為に作られたのである。また高波から船を安全に繋留できる事から、留萌や積丹などにも見られたものだが、現在ではこの利尻島にある袋澗の泉がもっとも原型を留めているから、一見の価値はありそうだ。
明治末から昭和初期までが最盛期で年間約10万トンも水揚げが上がるなど活気があったが、昭和30年頃を境に捕獲量が減り、それに伴ってヒトの流失がはじまったようである。
ぜひ訪れて、一攫千金を夢みたニシンの男たち、そしてそれを支えた女たちの思いをはせて欲しい。
